昭和41年06月24日 夜の御理解
信心の稽古をさして頂くという事は、神様の絶対愛を信じさしてもらう稽古をする事である。神様の絶対愛。それを信じさして貰う稽古を、する事が信心の稽古。それから先の事は、ある場合は形式であったり、又はお道の教師の信心常識であったりなのです。信心の稽古さして貰う本当の目指しっていうのは、神の絶対愛を確信さして貰える稽古をさして貰う事だと。ですからそこのところを分からして頂く、少しずつでも自分のものにしていけれる楽しいものが、段々で来て来なければ稽古はでけん。
稽古ということは、そのまんまもう修行である。ですからその修行を身につけていくということの、ただ歯を食いしばってものではなく、そこんところに苦しいけれども楽しいと、有り難いというものになって来なきゃならん。夕べ、月例祭が終わりましてから、私共が休まして頂いたのが2時半だったでしょうか、長女と愛子が最後まで奉仕しておりましたから、休んだのはもう2時半過ぎだったでしょうか。ほいでやはり今日は御神飯がございますから、長女はやっぱり、あの4時過ぎには起きて居る筈です。
そして朝のご祈念を頂いて、でから今日はあの、福岡で典楽会があっておりますから、また楽のお稽古に行っております。先ほど帰って参りましたけれど、今日は眠かったろうかいって、ところが眠かったふうでもない。それはやはり好きだからですね。これが例えば、今日他の用でもいいつけよったら、それこそもうぶりぶりすることだろうと思うんですけれども、自分が好きなんです。ですから夕べ休んどらんでも、いわば楽しゅう福岡までやらせて頂いた。稽古をして来ておるように。
だから、結局それが稽古すればするだけ自分のものになる。この楽しみがなかったら私は、そういうその好きにはならないと思う。信心の稽古も、すればする程自分のものになる事が分かって来る。又神様とてもそこんところを願いだされるのですから、そこんところを疎かにして頂きおると、お気づきを頂いたり、ほらほらそれじゃいけんじゃないかと言う様な、いわば只今修行中と言った様な時には、神様も本気でその氏子に対するご修行の体制が、神様の方もその体制を持って、その氏子にすぐ臨んで下さる。
先ほどご祈念前に、上野さんが、上野愛子さんがご祈念さして頂いてますのに、やっぱり昨夜遅くまで御用頂いておりますから、まぁ今日は眠たいところでございます。別に眠たいとも思わんけれども、まぁ昨夜にも眠っとらんからというところで、まぁ座りながらではあったけれども、寄りかかった様にして休んだんでしょう。そしたら途端に頂きますことが、あのサーカスの、あの空中サーカスのところを頂いた。
今修行中じゃないか、こういう大事な修行をさしてもらいよる時に、寝とったらどうなるか。ちょっとでもそこに、間髪をいれないいわば、油断と言う様な事がです、それこそ、真っ逆さまに落ちてしまうぞと。怪我するぞ、というその神様の厳しさを感じるじゃないですか。と思ってから又取り直してとこう言うております。最近足に又座りダコげできて非常に痛む。だから足を投げ出したり、横に座ったり、こうしようとこう思わして頂いた途端に、また神様下さったことが。
その周囲にたくさんの人が、正座しておるところです。その真ん中に自分があると。さぁこの気持ちでおれ。痛かっても辛抱できん事はなかろうが。満座の中に自分があるのである。というふうに厳しう、愛子さんには神様が、そういうふうに神様が出ておられます。厳しく。それを愛子さんが、本気で打ち込んで修行さして頂きたいという願いに応えて、修行さしてくださるのである。ですから本当にその、そう言う様に神様が本気でこちらが修行さして頂こうと思やぁ、修行さしてくださるのであるから。
そこにいよいよ神様の絶対愛というものを確信さして頂けれるおかげ。今日弟のそのヒロシさんが、丁度お礼に出て参りました。ほいで聞かして頂きました。先日からまぁ分かり易く言うならば、今度エ栄転をする訳なんです。けれども、地方の方へその移って、立派なお家も頂いてだけれどもその、家内の方がどっこい、私はそげな所には絶対にいかん、と言うてから強情張る。その強情ももう本当にもやもやするほど強情張り。もうその持て余して、先日お願いに来た。
4、5日前だったでしょうか。して今日御礼に出てきてるんです。もう先生ここから帰らして頂きましたら、もう手のひらを返すように家内が、そちらの方へ移ることを思うて、移るということを申しますと言う。で私申しました。あんたがね、もうない命をを助けて頂いた時でも、もうこげなふうなおかげを頂くということでも、とてもあんたのごたる適当に年に何遍かしか参ってこんちゅう者が、おかげ頂く筈がないじゃない。けどもこりゃあ姉さんのおかげよ。
愛子さんの信心で御上野一家が立っとるとよ、というてから私話したことでございましたけれど。だからそういう例えば、なら上野さんを中心にして、家族のものが兄弟たちが助かっていくと言う様な、もっと沢山の人達が助かっていく事のための、信心の力というもの、頂くということはどういうことかというと、神様を信じる力なのです。神様を信じる力というのはどこを信じるのかというと、神の絶対愛を信じるのである。神様の絶対愛を信じさして頂く稽古をさして頂いておる。
そこには自分はこの位の信心に、まぁ言うならばでけたで気じゃっ他の様な信心でも、自分が本当にさして頂けりゃ、神様がやはり私の言う事を、私の願いを聞いて下さると言った様なです、信心の楽しみというものが共のうて来る。だからこそ例えば豊美が、典楽のおかげを頂いてから、それが段々自分のものになっていく、その楽しみが夕べ休んどらんからといった問題ではなしに、福岡辺にまでもやはり行けれるのである。
しかも終日。それはやはり稽古しておる事が、稽古するだけ自分のものになっていきよる楽しみがあるから。信心の稽古でもそう。ただお参りをしておる拝ましてもろうて、ただ自分の願い事を申し述べる、と言うだけの様な信心からは、そう言う様なものは生まれてこない。本気で信心の稽古をさして貰う。信心の稽古とは、神様の絶対愛を信じさして頂く、稽古さして頂貰うそこに修行がいる。夕べ寝とらんけれども、その事が好きになって来る時に、やはりそこに内に篭って稽古が出来るのである。
眠たいけれども、楽しいのである面白いのである、眠たいけれども有り難いのである、ということに、信心ではなるでしょうね。そこんところのおかげ、そこんところの身に付いて行く所の、楽しみを持った信心にならなければならない。何十年信心したってです、信心の稽古のいわば、稽古している事が身についていきよるようなですね、思いがなかったらもうだめです。おかげは受けられてもそれでは値打ちがなかって。いわゆる信心の稽古をさして頂くっていうその体制と、態度というものがです。
今日、善導寺の久保山先生の奥さんが、お参りして見えてからです。先生、私は何というてもここの信者さんの中で、一番好きな信心っていうのは、秋山かずえさんの信心が一番好きでございますと言われる。素晴らしいもんまた。そりゃ例えば、今の信心が素晴らしいというのじゃない。十、ここ何年間という間です、あの人がそれこそ一歩一歩に信心を、自分のものにしていきよる姿勢が素晴らしい。だから言う事が垢抜けしとる。垢抜けしていきよるだんだん。
いわゆる信心臭いようであって、一つも信心臭くないという。信心になっていきよる最近。これはまぁ私もそれを感じておった。、だから誰の目でも同しこと。そういう例えば信心をです、自分のものにしていきよるこの態度というものは、人の心にも人の目にも映じたり、それが感じさせたりすることが出来るんと私は思うんです。何十年信心しとって、何十年ここで例えば私の家族のような者がです、朝晩、御理解頂きよってもです、本気でその事をです、信心を自分のものにさして頂こうとする願い。
神の絶対愛は本当にその中から分からせて頂こうとする精進というものを成さずしてはです、いよいよ10年、20年経ったて何にも成らんということ。おかげはやはりご縁を頂いておるから、おかげは受けておってもです、垢抜けしてこない。成程と言う様なものが相手にでも与えることすらできない。どうでも一つ、あの人でも目を見張る様な信心。神様でもやはり、本気で修行さして頂こうといやぁ、神様もその気持ちになって、共々に修行してくださる。私はこれがなかなければ駄目だと思う。
最近、竹内さんが10時から、大祓い10巻を信心に備えたい、奉唱、その事の修行がしたいというので、まぁ一生懸命。それこもう割れ鐘を割ったような大きな声で、やっぱですね、十巻大払いを奏上しますと一時間半かかるです。ようにもう汗びっしょり、お参りしたもんこそええ迷惑のごとあるけれども、実際はあれがひとつも邪魔になっていかん。だからお参りするものも、一生懸命例えば秘密なことでも、ひのおらびしなこてここ分からん。それで一生懸命なるからおかげ頂く。
いっちょん邪魔になっていかん。それを何日目にか、長男が伴奏するように、自分がここの若先生が伴奏してやっておる。私は教導ということで、こういうことが必要だと思いますね。例えば信者が本気で、信心させて頂いたらです、あの自身も知らずと共に、本気で修行さして頂こうと、言う事にならなければ、ほんとの素行はでけんて私は。いわゆるその若先生が、その竹内さんに対するところの、教導態度というのば私は有り難い素晴らしいことだとこう思うです。
一生懸命修行しよるというだけじゃなくて、自分も一緒にそれこそ、もう汗かかして頂くと、一時間半もう一生懸命、もうそれはへとへとになりますよ。高天原にかむずまりますって、ほんなもぉてんで、(?)のようにあげるなら十巻のあっという間にあげますよ。今日ももう腹の底から本当に一巻一巻をです、あげていったらもうそれこそ、一時間半おらび続けるだけでも、大変なことですよ。けれども、やはりこの人たちの場合でもです、そこんところがさぁひと汗かかして頂いて。
またお水を頂く時の、その一つの快さっていうか、一つの修行を成したというその気持ちというものはです、1日の内でも一番いうなら有り難い時じゃないかとこう思う。それが信心のどういう風にプラスになるか分からん。また神様それを喜んで下さるかも分からん。けれどもそう言う風にして一生懸命にです、神様に向こうておるという事だけは間違いないから、向こうておることだけは、神様が認めて下さると私は思う。そう言う様な中から、信心がいよいよ好きになってこなけりゃならんと思うんですね。
どうぞ。